社長の独り言 2013/2/4
体罰の話? - たまに覗くから面白い!毎日見ないでぇ・・・飽きるから。。 -
投稿日時:2013/02/04(月) 06:43
大阪にある桜宮高校という学校で、体罰を受けていたバスケットボール部のキャプテンだったかの生徒が、自殺するという問題がありました。
関西では結構大きなニュースになっていたのですが、皆さんはご存知ですかね?
問題の舞台となった学校は大阪市立の学校なのですが、大阪市には橋下市長という名物(?)市長がいるため、マスコミ報道も盛んになるんですわ。
皆さんは「学校の先生」という人種に対して、どのような思いをお持ちでしょうか?
「恩師」と考えておられる方から、「憎悪」の対象と考えておられる方まで、人それぞれだと思います。
私の人生の中での学校の先生とは、どうでも良い人間が7~8割、軽蔑や憎しみの対象が2~3割、そして2~3名の恩師という構成です。
偶然にも数名の恩師と呼べる先生と巡り会えた幸運に感謝しています。
児童・生徒の時代にいわゆる体罰を受けた経験はありますが、今でも恩師と考える人から体罰は受けていませんね~。
記憶にはありませんが、「体教」は受けたかもしれません。
逆に憎悪の対象になるような学校の先生を思い起こしてみると、不思議なことに「体罰」を受けてるんですなあ・・・。
記憶にある限りでは、理不尽に、「罰」として暴力的な扱いを受けてます。
私は自分の父親からは体罰を受けて育っているんですけどね。
体罰というか、暴力以外の何物でもない行為を受けているのですが、昔は珍しいことではなかった気がする。
少し歪んだ形の愛情表現か何かかな?
いや違うな。
自分が父親になった今、子供に体罰を加えそうになる時を振り返ってみると、感情的になった時でしかない。
立腹して、カッとなって、弱い者に手を上げるんですな。
カッとなって子供を殴っちゃいかんと思うけど、絶対にやってはいけないことを教えるときなんかに、「ここは体に染み込ませた方が良い」と考え、子供を叩く場面もあります。
でも一応ですね、子供に手を上げる前には「自分で自分を殴る」という自主規制を設けています。
大抵は自分で自分の頬を平手打ちします。ちょっと痛いですよ。
自分の頬を叩くと、確実に冷静になります。
叩くべきか、叩かないべきか、再判定を下すこともできます。
叩くと判断すれば、いよいよ子供の頬を平手打ちするんですが、痛みを確認し、冷静な状態で叩かなくてはならないので、そんなに強くは叩けません。
力ある者が、その力を行使するには慎重でなければならないと思います。
学校でも家庭でも、如何なる理由であれ暴力的行為を行うなら、感情的なものを排除して冷静かつ慎重にやらないといけないし、結果に対する責任も取らないといけません。
子供を躾けたり、教育する場面で、どうしても叩かなくてはならない場面はあると思います。
体に教えるという意味で、「体教」は歓迎しますが、体に罰を与える「体罰」はいただけませんな。
今ニュースになっている体罰事件では、冷静さ、慎重さ、結果に対する責任といったキーワードが欠けているかもしれません。
頻繁に殴るとか、何十発も殴るとか、感情だけで動いていないと出来ることではありませんからね。
さて、桜宮高校の事件に関しては、体罰による生徒の自殺問題よりも、一部の生徒、親、教師、関係者の不気味さが際立っています。
このような重大問題が発生しても、現状維持を望み、変化に対して抵抗する姿が浮き上がっているのです。
「生徒がかわいそう」「先生も一所懸命やっている」「部活動がやりたい」etcの、悪意のない善意での発言・行動なのですが、第三者から見ると気持ちが悪い。
「地獄への道は善意で敷き詰められている」
格言だと思います。
客観的に物事を見れない、あるいは謙虚さに欠けた善意の人たちの行動は、地獄への道ということです。
宗教やマルクス・レーニン主義にハマっている人みたいだと思っていたら、桜宮高校改革の問題は、日本共産党の利権拡大闘争の道具にされてしまっているようです。
共産党って、本当に気持ちの悪い連中だ。
善意の押し売りと過信が大好きで、謙虚さと柔軟さに欠けて社会に適合できない。
話題があちこちに飛びました。
結論なき話ですが、今日はこんなところで。
関西では結構大きなニュースになっていたのですが、皆さんはご存知ですかね?
問題の舞台となった学校は大阪市立の学校なのですが、大阪市には橋下市長という名物(?)市長がいるため、マスコミ報道も盛んになるんですわ。
皆さんは「学校の先生」という人種に対して、どのような思いをお持ちでしょうか?
「恩師」と考えておられる方から、「憎悪」の対象と考えておられる方まで、人それぞれだと思います。
私の人生の中での学校の先生とは、どうでも良い人間が7~8割、軽蔑や憎しみの対象が2~3割、そして2~3名の恩師という構成です。
偶然にも数名の恩師と呼べる先生と巡り会えた幸運に感謝しています。
児童・生徒の時代にいわゆる体罰を受けた経験はありますが、今でも恩師と考える人から体罰は受けていませんね~。
記憶にはありませんが、「体教」は受けたかもしれません。
逆に憎悪の対象になるような学校の先生を思い起こしてみると、不思議なことに「体罰」を受けてるんですなあ・・・。
記憶にある限りでは、理不尽に、「罰」として暴力的な扱いを受けてます。
私は自分の父親からは体罰を受けて育っているんですけどね。
体罰というか、暴力以外の何物でもない行為を受けているのですが、昔は珍しいことではなかった気がする。
少し歪んだ形の愛情表現か何かかな?
いや違うな。
自分が父親になった今、子供に体罰を加えそうになる時を振り返ってみると、感情的になった時でしかない。
立腹して、カッとなって、弱い者に手を上げるんですな。
カッとなって子供を殴っちゃいかんと思うけど、絶対にやってはいけないことを教えるときなんかに、「ここは体に染み込ませた方が良い」と考え、子供を叩く場面もあります。
でも一応ですね、子供に手を上げる前には「自分で自分を殴る」という自主規制を設けています。
大抵は自分で自分の頬を平手打ちします。ちょっと痛いですよ。
自分の頬を叩くと、確実に冷静になります。
叩くべきか、叩かないべきか、再判定を下すこともできます。
叩くと判断すれば、いよいよ子供の頬を平手打ちするんですが、痛みを確認し、冷静な状態で叩かなくてはならないので、そんなに強くは叩けません。
力ある者が、その力を行使するには慎重でなければならないと思います。
学校でも家庭でも、如何なる理由であれ暴力的行為を行うなら、感情的なものを排除して冷静かつ慎重にやらないといけないし、結果に対する責任も取らないといけません。
子供を躾けたり、教育する場面で、どうしても叩かなくてはならない場面はあると思います。
体に教えるという意味で、「体教」は歓迎しますが、体に罰を与える「体罰」はいただけませんな。
今ニュースになっている体罰事件では、冷静さ、慎重さ、結果に対する責任といったキーワードが欠けているかもしれません。
頻繁に殴るとか、何十発も殴るとか、感情だけで動いていないと出来ることではありませんからね。
さて、桜宮高校の事件に関しては、体罰による生徒の自殺問題よりも、一部の生徒、親、教師、関係者の不気味さが際立っています。
このような重大問題が発生しても、現状維持を望み、変化に対して抵抗する姿が浮き上がっているのです。
「生徒がかわいそう」「先生も一所懸命やっている」「部活動がやりたい」etcの、悪意のない善意での発言・行動なのですが、第三者から見ると気持ちが悪い。
「地獄への道は善意で敷き詰められている」
格言だと思います。
客観的に物事を見れない、あるいは謙虚さに欠けた善意の人たちの行動は、地獄への道ということです。
宗教やマルクス・レーニン主義にハマっている人みたいだと思っていたら、桜宮高校改革の問題は、日本共産党の利権拡大闘争の道具にされてしまっているようです。
共産党って、本当に気持ちの悪い連中だ。
善意の押し売りと過信が大好きで、謙虚さと柔軟さに欠けて社会に適合できない。
話題があちこちに飛びました。
結論なき話ですが、今日はこんなところで。